鈴木です。別館

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自分のコンプレックスについて語って良いのは自分のみ

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~ここから本文です~

最初に、実はかなり悪意を持って書いています。また一部危ない表現もあるため、不快に思われる方もいるかもしれません。

なので、これ以上は自己責任・自己判断のもと、お読み下さい。

=======以下より 本編スタート

コンプレックスを持っている人間ってかなりいますよね。

コンプレックスを全く持っていない人の方が少ないと思います。

以前、こんなエントリーを書きました。

 

夢を諦める事は不幸では無い。マイナスをプラスにする思考が重要 - 鈴木です。

簡単に必要な部分のみ抜粋すると

このブログではボクが撮った写真をよく利用している。その写真を見て違和感を持った人もいるかもしれない。

理由は色盲なため、普通の人とは色彩の表現が異なるからだと思う。

しかし、色彩がおかしいというのは一種の個性では無いか?と年を重ねてようやく思えるようになった。

色盲というマイナスは、ある意味個性であり、プラスでは無いか?という事。

マイナスを吹っ切る事でプラスになる。ただここまで思えるようになるには、時間はかかった。若くしてそう思える人は強い人だと思う。あいにく自分は弱かったけど、気づけてよかったと今なら思える。

 コンプレックスを強みに変えるという思想が大事だよね、という事を書いている訳ですが、逆に自分がコンプレックスになっている事を他人から、羨ましいと言われると、正直頭に来る事があります。

どういう事か説明をしていきます。

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 大学時代の知人の話

大学時代、同じサークルに居た、そんなに仲が良い訳では無いけど、会えば普通に話すやつがいた。

彼は映画「フリークス」が物凄く好きだと言った。

フリークス [DVD]

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 旅回りの見世物小屋が舞台で、出演者は実際の見世物小屋のスター、デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン姉妹などの本物の奇形者や障害者であった。公開当時は世間に大変なショックを与え、ブラウニングは本作以降の仕事に恵まれず、彼のキャリアを閉ざすものとなってしまった。また、イギリスでは公開から30年の間、公開禁止となっていた。 Wikipediaより

そして、彼は「俺も奇形児で生まれたかった!いや、本当にそう思っている!」と言った。

この言葉がきっかけでボクは彼と深く付き合うのをやめた。

奇形児はボクの中では、奇形児で生まれたい!と思って生まれてきた人は居ないと思っている。きっとコンプレックスの中、生きている。けどそのコンプレックスを武器にしている事はあっても元からそれを絶対に望んでいないと思う。

かつてあった小人プロレス

昔、まだ余裕で昭和だった時代、プロレスをたまに見にいっていた。そのプロレスの前座で小人病である人がプロレスをする小人プロレスというものがあった。

のちに人権問題となり、行われなくなる。

人権団体が障害者を見世物にするのは差別だ!と言って彼らの仕事を取り上げた。

この点について深く言及する気は無い。ただ、彼らは自分の身体にコンプレックスは少なからず持っていたと思う。しかしそれを武器に自ら稼いで生きる事を選んだのだと思う。この気持ちは素晴らしいと思う。人権云々は別にして。

しかし、それを見ている人が自分も小人病で生まれたかった!と彼らに言ったら彼らはどう思うのだろうか?

仮に自分なら、ふざけるな!と言ってしまうと思う。
もしくは、開き直ってというか達観して「羨ましいだろ!」というかもしれない。

ただ内心では良くは思っていないようにどうしても考えてしまう。

自分のコンプレックスについて語って良いのは自分のみ

コンプレックスは人からどう思われているか悩む事で生まれる。

人が居なければコンプレックスは生まれない。それはベストセラー「嫌われる勇気」を読んだ人なら理解してもらえると思う。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 ここでコンプレックスを抱くという事は、それに対して自分はよく思っていない事があるという事。でも、そのコンプレクスに対して、コンプレックスの元となっている事を羨ましい!と言われたら、普通はどう思うか。

つまりボクなら、色盲というコンプレックスを持っていた訳だが、

「色盲羨ましい!俺もなりたい!」なんて言われたら良い思いをするだろうか?

今なら、この程度のコンプレックスだったら「羨ましいだろ!」と言えると思う。しかし、本当にコンプレックスに感じていた時代に言われたら、恐らく殴っていたと思う。

例えば学歴にコンプレックスを持っている人間に、その学歴よりも上の人間がその学歴に対して「羨ましい!」と言ったらどうだろうか?

決してよくは思わないだろう。

一般的にマイナスと思われる要因のコンプレックスに対して、本当に羨ましと思っていてもそれは言わない方が良いだろう。人の気持ちを逆なでする事を公言するのであれば、それ相応の反応は覚悟しておきべきである。

ただ、ボクは人のコンプレックスになるような事に対してそのコンプレックスを羨ましいという人の根底には、そのコンプレックスを抱いている人間に対して見下した感情があるように思えてとても不快になる。しかし、本人はその感情に気付く事は一生無いだろう。何故なら自分とは違う種別の人間だからだ。

 

昨日の齊藤さんのエントリーから、何となくフリークスショーを思い出して書いてみた。

 

以上です。

ご清聴、ありがとうございました。

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